Dr.木下 径彦
自己紹介
生い立ち
少年時代
好奇心旺盛な性格です。
小学校、中学校ではカブスカウト、ボーイスカウトに夢中でした。
自然の中で人間の小ささ、自然との共存、生命の大切さを実感しました。
また、ボランティア活動の素晴らしさを体感。
日本ジャンボリーにも参加。世界ジャンボリーに行けなかったことを今でも悔やんでいます。
▼少年時代 |
高校時代はオートバイ一筋
落ち着きのない性格の私にとっては、行動半径が広がる夢の乗り物でした。
色々な意味?で成長をさせてくれました。
両親も黙認オートバイの購入代、ガソリン代など維持費を含めすべて自分でアルバイトをして維持しました。
大学は法学部を目指していました。
父は法律関係の仕事をしていたので、その道に進みたかったのです。
今でも父の本棚には、たくさんの分厚い法律の本が並んでいます。
子供ながらに、分厚い本を手に取って、難解な文章を読む、父の姿にあこがれていました。
▼高校時代 |
大学時代
残念ながら、父の指定する大学の法学部はすべて落ちました。しかし浪人という身分を父は絶対に許してくれませんでした。
そして、滑り止めに受けておいた、なぜか理系の歯学部に入学しました。
これが私の歯学部生活の始まりです。
父は、入学してからでも、法学部に行きたいのなら、学生として受験勉強しろと言ってくれました。
私の夢を打ち砕くようなことはせずに、うまく方向転換をしてくれた父に感謝しています。
入学して大学の授業が始まると、文系の畑を歩いてきた私には目新しいものばかりで、法学部の入学のことはそのうちに忘れました。ただ、後に立教大学に社会人入試をする際に法学部も受けてみました。 このときは合格し、一応の夢は達成されました。
大学生生活はバブルの絶頂期でした。当時交流した人たち、人間力、交際範囲は今でも宝物です。
▼大学時代 |
5年生くらいになると少し大人になってきました。臨床実習での口腔外科実習は、特にゴルフ部の先輩が口腔外科に多くいたので、ほかの学生よりも厳しく接してもらいました。それがよかったと思います。 厳しい分野でしたが、迷いなく自分の専門分野にしようと決めました。
私は仕事で裁判所に行く父をうらやましく、尊敬していました。
入局当時そんな父に、「おまえ、手術室に入れるなんてうらやましいな」と言われたのが印象的で少し大人になった気がしました。
ひたすら働いた大学病院(研修医)時代
口腔外科に籍をおいた時代は、点滴、採血、外来診察や手術介助、教授回診、医局の雑用で一日が過ぎました。
1日20時間くらい働いていたと思います。
好きこそものの上手なれとは先人の言葉ですが、まさにその通りだと思います。手術は、まずアシスタントとして介助するのですが、たくさんの手術器械を覚えなくてはいけません。手術中に覚えている暇はありませんから、私は毎週月曜日の午前中に手術室に行って、ベテラン看護師さんたちがしている、機械の手入れを手伝いながら、1つ1つの機械の使い方や名前を教えてもらいました。
点滴がうまくいかなければ、大学院の先輩の動物実験を手伝って、犬や、豚、猿の点滴をして練習をしました。
こうして、1ヵ月4万円という給料で貧乏でしたが、充実した日々を過ごしました。
大学院時代
その後、担当教授にお許しを頂き、2年目から大学院に進まさせて頂きました。
教授の指導のもと、研究や臨床に励みました。教授のカバン持ちの経験は何物にも代えられないかけがえのない時間です。
手術があれば、各地の先生から声をかけていただき、どんな手術でも一緒に手術に入らせていただきました。
そのころお手伝いをさせていただくクリニックの1つに美容外科がありました。
私はボランティア活動も積極的に参加しました。
▼大学院時代 コロンビア大学にて | |
自腹でスリランカやインドにいってがんの手術、外傷の手術をしてきました。
このころから、自分の将来の夢や医療に対してのビジョンを少しずつ持つようになりました。
1つは総合病院の口腔外科で医長として、自分の采配で1つの診療科を動かしたいと夢を抱きました。
もう1つはだれも行かないような、世界の開発途上国で、その国の人のために最新の医療をしたいと思っていました。
これはボランティアを通じて感じたことですが、自分の国が貧しいからといってその国の人々は、決して粗末な医療でよいと考えていないということです。
そして、もう1つは美容外科の中で、歯科、口腔外科の診療を実践してみたいと思っていました。
美容という特殊な分野で歯科診療を構築したいと考えました。大学院の研究は病理組織標本から、診断治療を体系的に学びました。病理解剖も何度もしました。
▼インドでボランティア活動 | |
▼スリランカでボランティア活動 | |
▼大学院卒業時 | |
総合病院勤務時代
大学院の卒業と同時に、教授の命を受けて500床程の総合病院に医長として出向しました。
そこでは患者さんとの触れ合い、他の診療科のドクターとの連携、他の領域の医学的知識を、第一線の先生に教えていただけました。この経験も私にとって宝物です。
ただ、思い悩みもしました。
患者様との触れ合いの中で、現代医療の限界を感じました。
手術をしても、放射線治療をしても、抗がん剤を使っても治らない患者さん。
入院したままで、帰る自宅のない患者さん。
家族が姨捨山のように一日でも長く入院させて下さいという患者さん。さまざまな家庭の事情があり、医療という枠組みだけでは解決できない問題に直面しました。
第二の大学生活へ
私は社会福祉という分野から、医療を見つめてみようと思いました。
社会福祉は、人が人らしく生きるために、人間がよりよく生きるための術を学ぶ分野です。
児童、女性、高齢者、身体障害者、精神障害者、国際福祉、など生活する全てにその考え方は妥当します。
病院を出て、一人の人として生活するとき、患者さんは患者ではなくなります。
ある人はお父さんに戻り、ある人は部長に戻り、ある人はおばあちゃんに戻ります。
これを一般的には社会復帰と呼んでいますが、人それぞれの生活があり、簡単ではありません。
ですから、病院なり、施設を出た後のサポートを専門とする学問を学び、医療の場面で役立てたいと思いました。
社会福祉援助技術という分野です。
30歳の楽しい大学生活でした。
2年間の間に4年間の単位を修得したほど、一日中大学にいて講義を聞いていました。
10歳も年が離れた、友達も出来ました。
卒業後から現在に至るまで
ちょうど立教を卒業するころに、医局時代の先輩からお誘いを受けました。
非常に優秀で、信頼をしている先輩からのお誘いでしたので、即答してお世話になることにしました。
それが大手の美容外科との出会いでした。
美容外科手術、審美、美容歯科診療をこなし、全国を飛び回る日々の始まりです。
美容外科の中で、口腔外科、歯科を融合させ、患者さんの悩み、コンプレックスを、社会福祉の視点や考え方を応用しながら診察をしてきました。
まだまだ、学ぶべきことはたくさんあります。
医学の進歩は日進月歩です。
たゆまぬ努力をする所存です。
叱咤激励の程よろしくお願い申し上げます。
アメリカ口腔外科学会会長とともに |